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聖エドワード2世王証聖者   St. Eduardus II. C.    記念日 10月 13日


 エドワードというイングランド国王は数名あって、中にはエドワード6世の如くカトリックを忌み嫌い、これに迫害を加えた者もあったが、またその反対に聖教を熱愛し徳を修め聖人と崇められるようになった英君も二方ある。それはエドワード1世及びその甥に当たるエドワード2世で、本日記念するのは後者の方である。
 彼は1013年エテルレッド王とその妃エンマの間に生まれた。まだ幼少の折り無法なデンマーク軍が来り寇し,王の一族を追い出し教会修道院等を焼き払い、掠奪を働き、司祭修道者達を虐殺し、国を乗っ取って人民に圧政の限りを加えた。それでエドワードは母と共にその故郷なるフランスのノルマンディー州に逃れたが、信心深い王妃はその間にも王子の心に聖い教えを刻みつけようと努めたので、エドワードは敬虔に生い立ち、側近の人々に「宮中の天使」と嘆賞された位であった。彼が如何なる心の持ち主であったかは、次のエピソードによってもその一斑が察せられよう。王子が成人されたある日のことであった。家来たちが「殿下にはいつか御剣を取ってお起ちになり、あのデンマーク人共を追い払い、神聖な祖国を快復なさらねばなりません」と申し上げると。エドワードは頭をふって「いやいや私は人の血を流してまで王になりたいとは思わぬ」と言われたとのことである。即ち彼はかの国難をも天主の御摂理と信じ、一切を聖旨に任せ、ただ思し召しならば再び祖国を我が手に返し給えと祈っておられたのである。
 父なる国王は不幸蒙塵の間にお隠れになったが、やがて英国民はデンマーク人等の虐政に堪え切れずなり、憤然決起して彼等を追い払い、太子エドワードを奉戴して国君とした。その荘厳華麗な即位式が行われたのは、実に1043年のキリスト復活祭の当日であった。
 時に彼は年齢ようやく30歳、若き明君は国力の疲弊を憂えて早速之が快復を計る一方、宗教こそは万善の源であるとの信念から、まず人民の間に敬神の心を養うように努力された、その為先に暴徒の手で破壊された教会修道院等を復興し、聖い典礼を厳かに執行させ、また司教を枢密顧問の中に加え、法典の編纂、貧民孤児などの救済を行い、何よりも長らく苛税に苦しめられてきた人々を安んずる為、減税の大英断に出られた。
 エドワードはその時まで妃を迎えず、また別に結婚したいとも思われなかったが、重臣や側近者が頻りにすすめるので、ついに篤信のエヂタを容れて妃とされた。しかし彼等は互いに相談の上、表面は夫妻の如く振る舞いつつも実は人知れず兄妹同様の清い童貞生活を続けられたのであった。
 まだフランスに避難中のことであった、エドワードは「もし天主が再び自分を祖国に帰らしめ、その王位の即かしめ給うならば、感謝の為必ずローマに巡礼しよう」と心に誓われたが、その望みが叶った今、かねての誓いを果たすべく旅に出られようとした。然るに重臣達は国政なお調わぬとの故を以て王の外遊を諫止して已まぬので、彼もほとほと因じ果て、教皇レオ9世に御裁断を仰いだ所、その巡礼の予算を以て一修道院を建て、また貧民を救うのがよろしかろうとの事であった。で、王はすぐ様その言葉に従い、魏々たる聖堂付き大修道院を建ててわが王室の菩提所とされた。これ、世に名高いウエストミンスター・アベイの始まりである。
 彼の治世は天主の御祝福の然らしめる所か、至って平和であった。エドワードが干戈を取って起たれたことは唯一度に過ぎなかった。それはスコットランド王マルコムが逆賊に攻められたのを救う為であった。なおデンマークには再びイングランド攻略の企てもあったけれど、その準備中その国王が世を去ったので実現には至らなかった。
 かようにエドワードは常に天主の聖心を心とし、万民を慈しんで天晴れ英明の主と慕われたが、1066年1月5日崩御になった。国民これを聞くや父を失った子の如く嘆き悲しまぬ者はなかったという。
 イングランドがカトリック国であった間、彼に対する崇敬は頗る盛んで、新王の即位式には彼の王冠とマントとの用いられるのが恒例であった。
 エドワードの遺骸は1220年10月13日ウエストミンスターに移し葬られた。これ聖会が本日の記念日と定めた所以である。

教訓

 聖エドワード王は王位よりも聖徳を重んじ、また己の栄華の為に人民の膏血を搾るような非道は決してされなかった。我等も現世のはかなさを常に念頭におき、己の宝は錆もしみもやぶらず、盗人穿たず盗まざる天国に蓄えるよう心がけたいものである。